【詳細】
比率:1:2
現代・青春
時間:約80分
【あらすじ】
「俺はもう絵を描かない」
幼い頃、そう決めた千都はずっと絵を描くこととは無縁の生活を送っていた。
「君の絵が見たいんだ!」
高校生になり、絵を描くことから離れていた千都に先輩の絵美はそう声をかけた。
『絵』がつなぐ二人の物語。
*こちらは『君の世界の色』シリーズを一つにまとめた作品でございます。
まとめるにあたり、加筆と修正を入れております。
お話の本筋は変わりません。
【登場人物】
千都:白石 千都(しらいし かずと)
高校二年生。
昔は絵を描いていた。コンクールで賞を取ったことがある。
今はあることが原因で絵は描いていない。
先輩の絵美からは「せんと」と呼ばれている。
絵美:廣瀬 絵美(ひろせ えみ)
高校三年生。美術部部長。
昔、千都の絵を見て感動したことがある。
もう一度千都に絵を描いてほしいと願っている。
千都のことを「せんと」と呼んでいる。
蘭:戸松 蘭(とまつ らん)
30代。
夫と小さな喫茶店を営んでいる。
絵美の母親とは旧友で彼女を小さい時から知っている。
千都:(M)空はどこまでも広がっている。この空に「果て」なんてものはないのだろう
そこを縦横無尽に飛び交う鳥は、まさに自由の象徴だ
空を飛ぶ鳥が自由の象徴であるとするならば、この大地に生きる者はなんなのだろう
大地に縛られ生きる者は、この世界の奴隷なのだろうか
絵美:(タイトルコール)君の世界の色
●学校の屋上・放課後
一人寝転がり、空を見つめる千都。
校庭からは部活動をする生徒の声や音が聞こえてくる。
千都:……空が青い……もうすぐ、夏か……
千都:(M)放課後。いつものように屋上に立ち入り、空を見上げる
何がしたいわけでもない。ただただ、家に帰るまでの時間つぶし
誰にも邪魔されない。虚無な時間
バタバタと階段を駆け上がる音。
千都:(M)……の、はずだった……
屋上のドアが勢いよく開く音。
絵美:見つけたぞ、白石千都(せんと)!
千都:(ため息をつき)……また、あなたですか、廣瀬先輩……
絵美:さぁ、今日こそは我が美術部へ……
千都:(遮って)お断りします
絵美:おい! 最後まで言わせろ!
千都:聞かなくてもわかりますので。というか、いい加減聞き飽きました……
絵美:じゃあ!
千都:お断りします
絵美:なんで!
千都:なんでもなにも、ずっとお断りしていますから
絵美:だからなんで断るんだ!
千都:何回も言っていますが、俺はもう絵は描かないので
絵美:だから! なぜ描かないんだ!
千都:別に。それは俺の勝手でしょう?
絵美:くぅっ!
千都:なので諦めてください
絵美:(食い気味に)嫌だ!
千都:……廣瀬先輩……
絵美:私は千都(せんと)の絵が好きなんだ! だから、私は君の絵が見たい!
千都:……
絵美:……
千都:(ため息をつく)
千都、屋上から出て行こうとドアの方へ歩みを進める。
絵美:あぁ! ど、どこに行くんだ!
千都:……もう帰ろうかと
絵美:え? なんで?
千都:特に理由はありません
絵美:あ……もしかして、私がここで千都(せんと)のしたかった事の邪魔をしてしまったのか?
千都:別に、したい事なんてありませんでしたから
絵美:……本当に?
千都:えぇ
絵美:よかった。あれ? でも、じゃあ、ここで何してたんだ?
千都:別に、何もしていませんよ。ただ、空を見てました
絵美:空? あぁ、そうか! 今日は雲一つない快晴だからな!
千都:そうですね
絵美:こういう空を見てると泳ぎたくなるな!
千都:はい?
絵美:え? 千都(せんと)はならないのか?
千都:なりませんね。大多数の人間はならないと思います
絵美:そうかなぁ。絶対泳ぎたくなると思うんだよな。だって、こんなに綺麗なスカイブルーなんだし!
千都:「スカイブルー」なのに「泳ぎたい」んですね
絵美:ん?
千都:いえ、なんでもありません
絵美:ん?
千都:廣瀬先輩はどうして屋上に?
絵美:それはもちろん、白石千都(せんと)、君を捜しに!
千都:……
絵美:ふふふ、私の情報網をなめるなよ!
千都:……その労力を他に使ってください……
絵美:ふふふ、君のためならどんな労力も惜しまないさ
千都:語弊がありますよ
絵美:え?
千都:先輩は、俺の「絵」のためならでしょ?
絵美:ふふふ。そこまでわかってくれているのであれば、次はぜひ、我が城、美術室へ……
千都:(遮って)行きませんよ
絵美:なぜ!
千都:行ったら最後、入部届にサインするまでここから出さないとか言われそうなんで
絵美:そうか! その手があったか!
千都:……
絵美:ん? どうした、千都(せんと)、そんな顔して
千都:……いえ、我ながら余計なことを言ったなと思いまして。忘れてください
絵美:いやだ
千都:(ため息をついて)そうですか
絵美:だが、そんな卑怯なことはしないから安心してほしい
千都:え?
絵美:私は君の絵が好きだ。それは、君が君の意思で描いた絵だから好きなんだ
だから、無理矢理描かせたいとか、無理矢理入部させたいとかは断じて思っていない
千都:……
絵美:ん? なんだその顔は
千都:いえ……
絵美:もしかして、意外だった?
千都:はい
絵美:え?
千都:いつもしつこいくらいに誘われていたので……そろそろ実力行使でもされそうだなと……
絵美:失礼な! 確かに、しつこいくらいに誘っていたかもしれないが……私にだって矜持がある!
千都:そうなんですね。それは失礼しました
絵美:おぉ! そう思うなら……
千都:(遮って)お断りします
絵美:えぇ……
千都:先輩の矜持はどうしたんですか……
絵美:ノリと流れでいけるかと……
千都:ノリと流れって……
絵美:残念だ……
千都:あと
絵美:ん?
千都:名前
絵美:え?
千都:いい加減、覚えてくれませんか。俺の名前は「せんと」じゃなくて……
絵美:かずと、だろ
千都:(少し驚いて)覚えてたんですか
絵美:もちろんだ。私が君の名前を忘れるはずがないだろう。私は君の一番のファンなのだから!
千都:なら……
絵美:(遮って)でも、こっちのほうがかっこいいだろ!
千都:……は?
絵美:なんか、海外の画家みたいでさ!
千都:……
絵美:ん? 千都(せんと)?
千都:……失礼します
絵美:お、おう! あ、また明日も勧誘に行くからな~!
千都、絵美を振り返らずに屋上を去る。
千都:(M)屋上を後にする俺の後ろから先輩のよく通る声がする
なんと言われたって絵なんて描くわけがない
千都:……暑い……
千都:(M)……夏が始まろうとしている……
雲一つない空。夏を象徴するその空の下に広がる黄色の絨毯。それはただ直向きに憧れを追う
届かないものと知っても、振り向いてすらくれないと知っていてもずっと追いかける
「絶望」なんて知りもせずに……
●図書館近くの喫茶店・午後
ベルの音。
喫茶店に入る千都。店内には誰もいない。
千都:……あの……
……えっと、お邪魔します……
店内中ほどまで入っていく千都。壁にかかっている絵に気が付く。
千都:大きい絵……
雲一つない空。澄んだ海みたいな色だな
こっちは……新緑の森か。綺麗な青だ
千都が絵に見入っていると店の奥から店主の蘭が出てくる。
蘭:あぁ、お客様、いらっしゃいませ! すみません、出てくるのが遅くなってしまって!
千都:……
蘭:お客様?
千都:あっ! す、すみません! 勝手に……
蘭:(優しく微笑んで)その子たち、気になりました?
千都:え?
蘭:そこに飾ってある子たちです
千都:え? あぁ、この絵ですか?
蘭:えぇ。絵の前で立ち止まって、じっと見てくださっていたから
千都:……
蘭:本当に綺麗ですよね。うちでバイトをしてくれてる子が描いたものなんですけど、凄く素敵で
なんだかとても癒されるし、頑張ろうって気持ちをもらえたりするんですよね
千都:(無意識に)……わかります
蘭:え?
千都:……素敵な絵ですね
蘭:(微笑む)
千都:あ、あの……
蘭:はい?
千都:すいません。ちょっと道をお訊ねしたいんですが……
蘭:あぁ、すみません! 私ったら一人でべらべらとおしゃべりしてしまって
千都:いえ
蘭:あ、もしかして道って、小早川私立図書館の場所ですか?
千都:え?
蘭:あら、違いました?
千都:いえ、その通りです
蘭:やっぱり! あそこの図書館わかりにくいですもんね
千都:どうしてわかったんですか?
蘭:だって、この辺りで聞かれる場所って言ったらあの私立図書館くらいですもの
千都:なるほど……
蘭:小早川私立図書館はここからもうちょっと先に行ったところです
ちょっと奥まった路地にあって、初めて行く人にはわかりにくいんですよ
マップのアプリを使っても、ここ本当に入って大丈夫かなって心配になる方もいるくらいですから
千都:そうなんですか
蘭:(考え込み)う~ん……
千都:どうされましたか?
蘭:小早川私立図書館にはお急ぎのご用事ですか?
千都:え、いや、急ぎではないです
絶版になった本がまだ読めるとのことで、行こうかなって思っただけなので
蘭:なら良かった!
千都:え?
蘭:もうちょっとしたらアルバイトちゃんが来てくれるんです。そうしたら図書館までご案内します
千都:そんな、大丈夫ですよ!
蘭:だって、この暑い中また迷うことになるかもってわかっているのに送り出すのはちょっと嫌ですから
千都:でも、申し訳ないです
蘭:じゃあ、こうしましょう
千都:え?
蘭:私が貴方を図書館までお送りするのは、この絵たちを見てくださったお礼と私のお話し相手をしてくださったお礼です
千都:え?
蘭:それに
千都:それに?
蘭:この絵を描いた子のこともぜひ紹介させていただきたいので
勢いよくドアが開く音。
息を切らす絵美。
絵美:お、おはようございます!
蘭:もう、慌てなくてもいいよって連絡したでしょ
絵美:いやいやいや!
蘭:あと、お店のドアは優しく開けてね?
絵美:……はい……
千都:……廣瀬先輩……
絵美:え? あぁ! 白石千都(せんと)!
千都:……
蘭:あら、二人はお知り合い?
千都:……高校の先輩です……
蘭:そうなんだ
絵美:な、なんで白石千都(せんと)がここに!
蘭:せんと?
千都:……俺のことです
蘭:あら、珍しいお名前なのね
千都:かずとです
蘭:え?
千都:俺の名前。千の都って書いてかずと
廣瀬先輩、流石に学校の外でその呼び方はやめてください
絵美:え?あ、ごめん。って、そうじゃなくて、なんで千都(せんと)がここにいるんだ!
千都:……
蘭:……絵美ちゃん、言われた傍から
絵美:あっ
蘭:千都君はちょうど道に迷ってね
絵美:ら、蘭さん、道に迷うのにちょうどとかあるの?
蘭:(無視して)それで、たまたまうちの店に寄ってくれたの
絵美:へ、へぇ~
蘭:千都君、もう紹介はいらないかもだけど……
こちら、うちのアルバイトちゃんの廣瀬絵美ちゃん。あの絵たちのお母さん
千都:え? お母さんってことは……
蘭:そう、その絵を描いたのは絵美ちゃんよ
千都:えぇ!
絵美:「えぇ!」とは心外だな。私だって美術部の部長なんだ。絵は描くさ
千都:……
蘭:(微笑んで)千都君、絵美ちゃんの気になってたみたいよ
絵美:え?
千都:あ……
絵美:本当か!
千都:……
蘭:絵美ちゃんの絵、すっごく熱心に見てくれていたもの
絵美:そうなのか! 白石千都(せんと)……
千都:お断りします
絵美:え?
蘭:ん?
千都:え?
絵美:なにを?
千都:なにをって……廣瀬先輩、いつもみたいに俺を美術部に勧誘するつもりだったんじゃ
絵美:どうしてそうなる! 私をなんだと思ってるんだ!
千都:日頃の条件反射です
蘭:(ため息をついて)絵美ちゃん、どんな学校生活を送っているの……
絵美:蘭さん! これは!
千都:(食い気味に)会う度に挨拶の代わりに「我が美術部へ!」と勧誘されます
蘭:絵美ちゃん……
絵美:し、仕方ないだろう! 私はそれだけ君の絵が好きなんだ!
蘭:あら、千都君も絵を描くの?
千都:……昔、描いていたんです
絵美:蘭さん、彼の絵は凄いんだ!
蘭:そうなんだ
絵美:だから、嬉しいぞ!
千都:え?
絵美:私が一番好きな絵を描く人間に、私の絵を見てもらえたんだ!
千都:それは……
絵美:あ、そうだ!
千都:(食い気味に)お断りします
絵美:違う!
蘭:(苦笑して)これは、もう一種のトラウマかしら……
絵美:蘭さん!
千都:……いつもの勧誘ではなく?
絵美:違う!
千都:じゃあ、何ですか?
絵美:君はこの夏休みの予定、どうなっている?
千都:どう、とは?
絵美:(食い気味に)暇な日は無いか?
千都:え、えっと……
蘭:ちょ、ちょっと、絵美ちゃん、落ち着いて。どうしたの?
絵美:私のアトリエに来てほしい!
千都:え?
絵美:アトリエにはいっぱい絵があるんだ!
大きいものも小さいものも、これまで描いてきたものが沢山! それを君に見てほしい!
千都:絵を?
絵美:これまで君の絵を見たいとばっかり思っていたが、今思った。君に私の絵を見てほしい!
千都:……
絵美:ダメか?
千都:……見るだけなら、かまいません
絵美:本当か!
千都:えぇ
絵美:じゃあ、約束だ!
蘭:……絵美ちゃん……
絵美:蘭さん?
蘭:……いいの?
絵美:え?
蘭:アトリエに招待して……
絵美:うん!
蘭:そう……絵美ちゃんがそう言うなら……千都君なら……
千都:?
蘭:さてと! それじゃあ、千都君、図書館までご案内するわね
千都:あ、は、はい
蘭:とういうわけで、絵美ちゃん、店番よろしくね
絵美:えぇ! 蘭さんずるい! 私だってもっといろいろ話してたかったのに……
蘭:残念だったわね
絵美:むぅ。蘭さんが意地悪だ。あ! 私が図書館まで案内をすれば……
千都:(遮って)お断りします
絵美:なんでだ!
蘭:(微笑んで)絵美ちゃん、ダメよ。これは、私と千都君のお約束だから
絵美:む~
蘭:こらこら、フグみたいに膨れないの
絵美:……若い男と出かけたって咲弥さんに言っときますね
蘭:あら、そんなことしちゃうの? そうしたら、今日の賄いは無しということで
絵美:くぅっ!
千都:……えっと
蘭:あぁ、気にしないで。咲弥は私の夫なんだけど、そんなことで嫉妬するような人じゃないから
さ、行きましょ
千都:はい
絵美:あ、千都(せんと)!
千都:……はい
絵美:あ、ごめん、つい癖で……
千都:(ため息をついて)なんですか?
絵美:約束、したからな! 後で連絡するから!
千都:……はい
千都:(M)俺は何故、承諾してしまったのだろう
千都:(M)最後に触れたのはいつだっただろうか
それはとてもやわらかくて、あたたかくて……ずっと、傍にあるものだと思っていた
そして共に生きていくものだと思っていた。それが当然だと幼い俺は信じて疑わなかった
だがそんなものはまやかしで、そんな夢物語なんて存在してなくて
……それは俺の手から簡単に零れ落ちていった
●夏・午前・絵美のアトリエ前
小さい小屋の前でスマホを確認する千都。
千都:……ここでいいんだよな?
絵美:(アトリエのドアを開けて)おぉ、白石千都(せんと)! よく来たな!
今迎えに行こうかと思っていたんだ!
千都:……よく来たなって、俺をここに呼んだのは廣瀬先輩ですが?
絵美:(笑いながら)そうだな。まぁ、暑い中で立ち話もなんだ。どうぞ入って!
千都:……お邪魔します
●アトリエの中
部屋の中はキャンバスや画材、描いた絵がたくさん置かれている。
奥には別室へとつながるドアがある。
千都:……
絵美:あ、あぁ……ちょっと、散らかっててごめん。片付けはしたんだが……
千都:いえ、大丈夫です。思っていたよりも綺麗で驚いています
絵美:……おい
千都:なんですか?
絵美:……千都(せんと)、お前は私のことをどういう人間だと認識しているんだ?
千都:いえ、先輩がと言うよりも、絵を描いている人の多くってそれに集中しがちなので結構周りが散らかりやすいじゃないですか。先輩もそんな感じなのかと……
絵美:あぁ……それは否めないな。今日片付けをしなかったら、足の踏み場もなかったかもしれん
千都:(苦笑して)やっぱり
絵美:別にいいだろ! ここは私のアトリエなんだから! アトリエは絵を描くための場所だ!
千都:確かに、そうですね
絵美:だろ!
千都:……あと、意外でした
絵美:え?
千都:アトリエってもっと山の奥にあるものだと勝手に想像していました
絵美:山の奥? 山の奥にあるアトリエなんて不便なだけだろう?
千都:でも、なにもないからこそ、絵を描くことだけに集中できるじゃないですか
絵美:なるほど、それはそうだな。じゃあ、千都(せんと)のアトリエは山の奥にあったのか?
千都:……一般的なイメージです……
絵美:そうか。まぁ、もっと大人になって、絵で食べて行けるくらいになったなら、そういう場所に移り住んでもいいかな
と、言っても、ここも大概田舎だけどな
千都:そうですか?
絵美:あぁ、ここに来るまで途中から家と田んぼしかなかっただろう?
千都:……確かに
絵美:ふふふ、その田んぼの中心にある小さい丘の上にある小屋。それが私の城だ!
千都:よく見つけましたね
絵美:元々はじいちゃんが農作業で使っていた小屋なんだ
千都:そうなんですね
絵美:ここからなら蘭さんのお店にも自転車でいける距離だし、良い所だろ?
千都:はい
絵美:(微笑んで)さぁ、では、我が城の説明も済んだことだし、好きに絵を見て行ってくれ!
千都:え?
絵美:ん?
千都:……いや
絵美:どうした?
千都:「この絵を見てくれ」って言われるのかと思ってました
絵美:いや~、はじめはそう思っていたんだけどな。やめた
千都:え?
絵美:自由に見てほしい。そして、千都(せんと)の好きなものを教えてほしい
千都:……
絵美:この前気が付いたんだ。今までは私の好きを伝えてきた
だから、今度は千都(せんと)の好きが知りたい
千都:俺の好き……
絵美:あぁ。もちろん、気遣いやお世辞はいらない。千都(せんと)の素直な気持ちの感想を聞きたいんだ
千都:……
絵美:……ダメか?
千都:(ため息)
絵美:あ、いや、その、嫌だったら……
千都:わかりました
絵美:え?
千都:好きに見させていただきます
絵美:本当か!
千都:はい。ただし、あくまで俺の好みですから
絵美:それがいいんだ! 千都(せんと)の感覚を知りたいんだ
千都:……っ……
絵美:千都(せんと)?
千都:わ、わかりました! じゃあ、もしも俺の好きが無くても文句言わないでくださいね!
絵美:うっ! それは悲しいが、無ければもっともっといろいろと描く! 私の世界を広げていく!
千都:……
絵美:じゃあ、私はあっちで作業してるから好きに見てくれ
千都:はい
絵美:あ、黙って帰るのは無しだからな
千都:わかりました。いくら俺でもそんなことしないので安心してください
絵美:あぁ!
千都:(M)俺の返答に先輩は嬉しそうに答え、描きかけであろうキャンバスの前に座った
……何故そんなにも嬉しそうなのだろうか……
●アトリエの中・数時間後
絵を一つ一つ丁寧に見ている千都。絵美は少し離れたところで絵を描いている。
千都:……
絵美:(横目で千都を見て微笑む)
千都:?
絵美:あ、ごめん。せっかく集中して見てくれていたのに邪魔をしてしまったな
千都:え?
絵美:もう結構な時間がたっている。ちょっと休憩にしよう
千都:そんなに?
絵美:あぁ、ほれ(時計を指さす)
千都:あ……本当だ……
絵美:今、飲み物を準備するよ
千都:いえ、大丈夫です
絵美:遠慮するな。ちょうど蘭さんからクッキーを差し入れでもらっていたんだ
今日二人で食べなさいってね
千都:あ、ありがとうございます
絵美:(微笑んで)お礼は私にじゃなくて、今度お店に寄って蘭さんに直接伝えてほしい
きっと蘭さん喜ぶから
千都:そうですね。そうします
絵美:(椅子から立ち上がり軽く伸びをして)さ、諸々のセットを持ってくるから、そこにある机と椅子を引っ張り出しておいてもらってもいいかい?
千都:あ、はい、わかりました
絵美:(準備をしながら)それで?
千都:はい?
絵美:千都(せんと)が気になった絵はあったか?
千都:……
絵美:ん?
千都:……すみません
絵美:あ、あぁ……やっぱり、私の絵ではまだまだだよな……
千都:(遮って)違います!
絵美:え?
千都:……
絵美:せ、千都(せんと)?
千都:……一つの絵に見入ってしまって……
絵美:え?
千都:……だから、他のはまだ見られてなくて……すみません……
絵美:……(笑う)
千都:廣瀬先輩?
絵美:いや、すまない
千都:いえ……
絵美:嬉しいよ
千都:え?
絵美:千都(せんと)に見入ってもらえるような絵を描けていたこと
私の絵が君の心を捕らえることが出来たこと
千都:……
絵美:どんなところを好きになってくれたのか、なんて聞くのは野暮だということは分かっているが……聞いてもいいか?
千都:……俺は、評論家じゃありません
絵美:当たり前だ! 私はそんな着飾った堅苦しい言葉を聞きたいんじゃない
白石千都(かずと)、君の言葉で私の絵が君にどう映ったのかを聞きたいんだ
少しの間。
千都:(一枚の絵を見つめ)……あの絵の空の青が綺麗で……
絵美:うん
千都:この絵はどんな場所で、どんなタイミングで描かれたんだろうとか疑問が浮かんできて
絵美:うん
千都:……あの手前に描かれているのはミモザですよね?
絵美:そう。よく知っていたな
千都:あのオレンジがとても柔らかくて、優しい色で……空の青に映えていて
あんなに多くのミモザが見られる場所がどこにあるんだろうって
その場所にはどんなものが溢れているんだろうかとか……
絵美:うん
千都:いろいろと考えてしまって……
絵美:そうか
千都:……すみません……
絵美:ん? どうして謝るんだ?
千都:廣瀬先輩の絵からいろんなものを感じたのに、俺にはそれを表現できるだけの語彙が無くて……
絵美:そんなことはない
千都:え?
絵美:君の言葉や声、表情は私にいろいろと伝えてくれたよ
千都:……廣瀬先輩……
絵美:(微笑んで)やっぱり、君をアトリエに招待して良かった
千都:え?
絵美:(苦笑して)実は最近少々スランプ気味でね
千都:スランプ?
絵美:いや、スランプという言葉もおかしいか……
悔しいが、昔から私にはどうしても『描けないもの』があってな
千都:『描けないもの』?
絵美:あぁ、でも、それに立ち向かわないといけない状況になってしまったってな……
千都:……
絵美:(苦笑して)まぁ、これはいつか私が乗り越えなくちゃいけない壁だからな
描けないなんてただの甘えだ……
千都:……先輩は何を描きたいんですか?
絵美:え?
千都:壁に立ち向かってまで何を描きたいんですか? 好きなものを好きに描いたらいいじゃないですか
……嫌なものを無理して描く必要なんてない……
絵美:確かにそうだな。でも、これはいいチャンスだと私は思ったんだ
千都:チャンス?
絵美:実は、蘭さんのお店の常連さんがちょっとしたギャラリーを持っていてな
毎月いろんなイベントをしていて、その常連さんが来月の作品展に私も絵を出してみないかって言ってくれてさ
千都:そうなんですね
絵美:うん。それで、来月の作品展のテーマが「家族」なんだ
千都:……家族……
絵美:そう。それで、ちょっと悩んでて……って、あ!
千都:っ! 廣瀬先輩、どうしたんですか、急に大きな声を出して……
絵美:時間!
千都:え?
絵美:千都(せんと)、今すぐ帰る準備をして!
千都:え? え?
絵美:あぁ、もう! 君はここに来るのに何で来たんだ?
千都:バスですが?
絵美:時刻表は見たのか?
千都:え?
絵美:ここ、この時期は三時間に一本しかバスが止まらないんだ!
千都:えぇ!
絵美:ほら、早く支度して!
千都:は、はい! あ、でも……
絵美:ん?
千都:先輩の絵、まだ一枚しか……
絵美:(一瞬驚くがすぐに微笑んで)ありがとう
千都:え?
絵美:私は夏休み期間、ずっとこのアトリエにいる予定だ! いつでも好きな時に来てれ
千都:……いいんですか?
絵美:もちろん、君なら大歓迎だ!
あぁ、でも、もしかしたらいない時もあるかもしれないから、来るときは一度蘭さんの店をのぞいてみてくれると嬉しい
大体はここか蘭さんの店かのどちらかにいるから
千都:わかりました
絵美:ほら、急いで!
千都:あっ
絵美:じゃあ、またな! 千都(せんと)!
千都:はい
千都:(M)笑顔で俺を見送る先輩
どうして俺はまたここに来たいと思ってしまったのだろうか
どうして、あの人の絵をもっと見たいと思ってしまったのだろうか
……もう絵には関わらないと決めていたはずなのに……
千都:(M)その夜、俺はベッドに横になりいつもと変わらない天井を見つめていた
いつも変わらない夜、のはずなのに……
久しぶりに嗅いだ懐かしい匂い。もう嗅ぐことはないと思っていたあの匂い
それは俺の感覚を呼び覚ます。胸の奥にしまい隠していた思い出も一緒に
自分のせいで誰かが不幸になるのは嫌だ
そうなるくらいならと、夢を捨てたあの日を……
千都:俺は……捨てたんだよ……もう、捨てたんだ……
●夏・午後・絵美のアトリエ
扉の前に佇む千都。
千都:……俺はなんでまたここに来たんだろうか……やっぱり帰ろう……
絵美:(アトリエの中から)いい加減にしてくれ!
千都:っ! ……廣瀬先輩?
絵美:(アトリエの中から)何度も言うが、私はここを出るつもりはない!
ここはじいちゃんが私にくれたアトリエだ、絶対に渡さない! 伯母さんには関係ないだろ!
千都:先輩?
千都、アトリエのドア越しにもっと会話を聞こうとドアによる。
すると、鍵が掛かっていなかったため、スッと扉が開く。
そっと中に入る千都。部屋の中では絵美がちょうどドアに背を向けて電話をしている。
千都:……
絵美:だから! 何度も言ってるだろう! 私は、……っ! うるさい!
千都:っ!
絵美:そうだ! 全部私のせいだ! 私が父さんや母さんを、兄さんを殺したんだよ!
千都:(息をのむ)
絵美:……そうだな。兄さんや父さんじゃなくて私があの時死ねばよかったんだよな!
私みたいな出来損ないじゃなくて、兄さんが生き残ればよかったんだよな!
そんなのもう聞き飽きた! わかってるよ! っ!(電話を切る)
千都:……
絵美:っ! あ、白石千都(せんと)……
千都:あ……
絵美:(サッと切り替えて)いつから来ていたんだ!
千都:え?
絵美:来てくれたなら声くらいかけてくれ。びっくりしたじゃないか!
千都:……いや、その、お取込み中だったみたいなので……
帰ろうかと思ったんですけど……あの、その、ドアが開いてしまって……
絵美:あぁ、ここのドアは古いからな。鍵をかけないとすぐに開いてしまうんだ
いつものことだから気にしないでくれ
千都:……
絵美:……
千都:あの……
絵美:それで?
千都:え?
絵美:今日も絵を見に来てくれたんだろ?
千都:……はい
絵美:じゃあ、好きなだけ見て行ってくれ!
千都:……
絵美:千都(せんと)?
千都:……はい……
千都:(M)何も言えなかった。先輩のその笑顔が仮面に見えた
何も聞いてくれるなと、全身で拒絶されているようだった
●夕方・アトリエからの帰り道
蘭の店の前を通る千都。ちょうど外には店のメニュー黒板を代えている蘭がいる。
千都:……
蘭:あら? 千都君!
千都:え? あ、蘭さん、こんばんは……
蘭:こんばんは。今日も絵美ちゃんのアトリエからの帰り?
千都:……はい……
蘭:……
千都:……
蘭:千都君
千都:あ、はい
蘭:(微笑んで)よかったら、今日はうちでご飯食べて行かない?
千都:え?
蘭:ちょうど今日はお客さんも少なくてお店の中が寂しいの
サクラってわけじゃないけどお客さんのふりをしてもらえないかな?
千都:えっと……
蘭:あ、そうよね。この時間じゃご迷惑になっちゃうわね……
千都:いえ、この時間なら……大丈夫です
蘭:じゃあ、決まり! お家の人に連絡しちゃって。あ、千都君って嫌いなものあるかしら?
●蘭の喫茶店・店内
カウンターの端の席に座る千都。
蘭:今、夫にお願いしてきたからちょっと待っててね
千都:……すみません……
蘭:なんで謝るの? 私からお誘いしたのよ?
千都:……
蘭:千都君
千都:はい
蘭:今日、絵美ちゃんのアトリエで何かあった?
千都:どうして……
蘭:……やっぱり
千都:……
蘭:何があったのか、聞いてもいいかしら?
千都:……
蘭:……言いにくい事なのね?
千都:その……
蘭:大丈夫よ
千都:え?
蘭:私、実は絵美ちゃんのことを彼女が小さいころから知ってるの
それこそ、小さい身体に大きなランドセルを背負って元気に学校に通っていた頃から
千都:そう、なんですか……
蘭:えぇ。私と、絵美ちゃんのお母さんは大学の時の友だちでね。卒業してからもずっと交流があって
千都:……
蘭:千都君、だから私はある程度、彼女の事情も家庭環境も知っているの
少しの間。
千都:……電話を、聞いてしまったんです……
蘭:電話?
千都:アトリエに入ろうか迷っていたら、中から先輩の大声が聞こえてきて……
なんだろうって思ってドアに近づいたら、たまたまドアが開いて……
蘭:うん
千都:……先輩は誰かと電話で話してて、「いい加減にしてくれ、この場所は渡さない」って……
蘭:……そう
千都:……それから……
蘭:それから?
千都:……
蘭:(優しく微笑んで)いいのよ
千都:え?
蘭:千都君が聞いたこと、そのまま吐き出しちゃいなさい
千都:……
蘭:私は彼女の事情を知っている。だから、ある程度のことは予想も出来てる
千都:……
蘭:貴方が一人で悩む必要なんてない
千都:……
蘭:知ってしまったからにはなかったことには出来ない
でも、一人で抱え込む必要なんてない
千都:……自分が……
蘭:うん
千都:……ご両親とお兄さんを殺したって……
蘭:っ……
千都:出来損ないの自分じゃなくて、兄さんや父さんが生き残ればよかったんだろって……
蘭:……
千都:……でも、俺に気が付いた瞬間にいつもの先輩に戻って……
蘭:……そう……
千都:……俺、なにも言えなかったんです……
なにか言わなきゃと思ったのに、なにも言葉が出てこなかった……
間。
蘭:……ねぇ、千都君。あの子のこと、もっと知りたいと思う? 興味本位ではなくて
千都:え?
蘭:正直に言うわ。覚悟がないのなら知らない方がいいと思う
千都:……
蘭:興味本位で近づくことはしてはいけないし、してほしくない
覚悟がないのなら今日のことは胸の内にしまって、今までと同じようにあの子と接して
と言っても、そんな言葉を聞いてしまったら『今までと同じ』なんて難しいでしょうけれど……
千都:……蘭さん
蘭:千都君のためにも、あの子のためにも
間。
千都:……知りたいです……
蘭:……
千都:興味本位なんかじゃないです
蘭:……そう
千都:……知らなくちゃいけないと思うんです……
俺の絵を、俺の好きなものを好きだと言ってくれた先輩に俺は少しでも何か返したい
救いたいとか、力になりたいんなんて烏滸がましいことは言いません
俺に出来ることなんてないかもしれない。ただ……
蘭:ただ?
千都:……せめて話を聞ける距離にいたいんです。なにかあったときに独りきりにさせない距離にいたい
蘭:……わかったわ
千都:蘭さん
蘭:千都君のその顔。嘘をついているようには見えないもの。それに……
千都:それに?
蘭:その目、貴方も何か背負っているものがあるのね
千都:……
蘭:これから話すことは絶対に誰にも言わないで。とても、悲しい話だから……
千都:はい
千都:(M)その日、蘭さんの口から語られた話は俺の知っている先輩からは想像だに出来ない内容だった
手から暖かいものが零れていく感覚。そして、その後の虚無感
それらを知っているのは俺だけだと思っていた。でも、それは違った
俺の感じた虚無感なんてその人に比べたら大したことなくて、俺よりももっと大きな絶望を抱えている人はとても近くにいて……
蘭:あの子はいつも笑っているけれど、その目の奥は深海のそれのよう
それでも笑みを絶やさないのは、あの子の覚悟の証だから
千都:(M)それでも、その人は必死に前を向こうと……あの花のように『光』を追いかけていた……
●夏・午前・絵美のアトリエ
数日前のように扉の前に佇む千都。
千都:……俺はどうしたいんだ……
ここに来たからと言って、廣瀬先輩の過去を知ったとして、俺に出来ることなんて……
……帰ろう……
アトリエの中からガラスの割れる大きな音がする。
千都:この音、ガラス? 廣瀬先輩!
●荒れているアトリエ内
書きかけのキャンバスの前で花瓶の破片を握りしめている絵美
手からは血が流れている。
絵美:……
千都:先輩! いったいどうし……
なにやってるんですか! 手、血が!(絵美の手を掴む)
絵美:……
千都:先輩、手からその破片を離してください!
絵美:……
千都:廣瀬先輩!
絵美:(ふと我に返り力なく)……あぁ、白石千都(せんと)……
千都:先輩、手からそれ離してください!
絵美:……あぁ……(手の力を抜く)
千都:(近くにあった布で傷を押さえる)なにやってるんですか! 手だってこんな!
絵美:あぁ……
千都:絵も画材もこんなに散乱して……
絵美:……今朝、伯母がアトリエに来てな……
千都:っ!
絵美:あの時、君も聞いていたんだろ? あの電話の人だ……
千都:……
絵美:(嘲る様に笑い)この小屋からさっさと出ていけってさ
お前みたいな疫病神はさっさと私たちの前から消えてくれって
千都:……っ……
絵美:笑っちゃうな。私の顔も見たくないと言っているのにわざわざアトリエに会いに来るなんて
千都:……廣瀬先輩……
絵美:顔も見たくないっていうから、じいちゃんの家でも離れを部屋にしてもらって、長い休みの時はこのアトリエで生活してさ
あの人たちの生活には一切かかわってないのにな
千都:……
絵美:なのにここに来て、ここをこんな風にして……吐き気がするほど嫌になるよ……
千都:……
絵美:(自嘲的に笑い)あ~ぁ、これは掃除が大変だな
千都:……っ……お、俺がやりますから……
絵美:千都(せんと)?
千都:俺が片付けますから、先輩はあっちの部屋で休んでいてください
絵美:(きっぱりと)いい
千都:え?
絵美:片付けは私がやる
千都:そんな傷だらけの手で何言ってるんですか! とりあえず、病院に行ってください!
絵美:これくれくらいの傷なら、縫うまでのものじゃない
千都:なに言ってるんですか! そんなに血が出ていて大丈夫なわけが……
絵美:(遮って)慣れているから分かるんだよ
千都:え?
絵美:こんなの慣れている。自分の身体のことは自分が一番よく知っているよ
それに、君には触ってほしくないんだ
千都:……っ!
絵美:千都(せんと)の手は綺麗でいてほしい
千都:……え?
絵美:あんなに素敵な絵を描く君の手は、こんな汚いものに触れちゃいけない
あの人の歪んだ感情のなれの果てなんて……
それになにより、どこかにガラスの破片が飛んでるかもしれないしな
千都:……俺の手は綺麗なんかじゃないです
絵美:綺麗だよ、君の手は
千都:……俺は……
絵美:なぁ、白石千都(せんと)
千都:……はい
絵美:ちょっとだけ私の昔話に付き合ってくれないか?
●荒れているアトリエ内
数分後。慣れた手つきで手に包帯を巻き、椅子を引っ張り出す絵美。
絵美:待たせてすまなかったな
千都:いえ、本当に慣れているんですね
絵美:え?
千都:……手の手当
絵美:あぁ、だろう?
千都:……
絵美:このまま立ち話もなんだ。座ってほしい
千都:はい(静かに椅子に座る)
絵美:さて、どこから話せばいいかな……
千都:どこからでも
絵美:ありがとう。さっき話を聞いてほしいと言ったが、今からする話は気持ちのいい話ではない
だから、嫌になったら、いつでも止めてくれ
千都:……わかりました
絵美:ありがとう
……私が絵を描き始めたのは小学生の時だった
何気なく夏休みの自由研究で描いた絵を大好きな兄が褒めてくれたんだ
それが嬉しくて、私は時間さえ出来ればずっと絵を描くようになった
父さんも母さんももちろん褒めてくれたよ
たまに、ちゃんと勉強しなさいとかご飯を食べなさいって怒られたけど
千都:……そうなんですね
絵美:あぁ、とても幸せだったよ。あの日までは
千都:……
絵美:ある晴れた日の日曜日。私たち家族はいつものように車で出かけていた
その日は私が行きたいと言っていた大きな公園に連れて行ってもらったんだ
いろんな花が園内に咲いていて。毎年その公園に行って、絵を描いたり、兄と遊んだりするのが楽しみだった
千都:……
絵美:めいいっぱい遊んで、私は疲れ果てて帰りの車で眠ってしまった
車の心地よい揺れに揺られながらふわふわしていた時、突然、身体全体に強い衝撃が走った
そして、次に気が付いたときは病院のベットに上に一人で眠っていた
千都:……
絵美:夕方の渋滞で起こった事故だった
当時のことは覚えてないからよくわからないが、私以外は即死だったらしい
兄は……私の上に覆いかぶさっていたそうだ
千都:……
絵美:その後、私は父方の祖父母に引き取られた。そこであの人。同居をしていた伯母さんに会ったんだ
伯母さんは弟である父さんが大好きでな。歳が少し離れているからか凄く可愛がっていたらしい
……だから、退院して祖父母の家に行ったとき、第一声で言われたよ。「人殺しの疫病神」ってね
千都:……っ……
絵美:そんな私を守るために、じいちゃんとばあちゃんは伯母さんと顔を合わせなくて済むように離れを用意してくれたり、このアトリエをくれたりしたんだ
千都:……そう、だったんですね……
絵美:でも、しばらくは絵なんて描く気持ちにならなくてな。ずっと離れに引きこもっていたんだ
そんな時だった。私のことを心配したじいちゃんとばあちゃんが、病院の日だって嘘ついて、私を外に連れ出してくれたんだ
連れていかれた先は絵のコンクールの展覧会の会場だった
白石千都(せんと)、そこで君の絵と出会ったんだ
千都:あ……
絵美:夏の青空の下、家族が仲良く佇むひまわり畑の絵。凄く鮮やかで、透明で、綺麗で……
そして、その絵の中の全てが生きているみたいで……
私は胸を打たれた。幼い頃、自分が家族と見た景色をそこに重ねたんだ
千都:……
絵美:私が殺してしまった家族が、もしかしたら、絵の中でなら生きてくれるかもしれない
そんな絵を描けたら私はまた家族と一緒にいられるのではないか。許されるのではないか
だから、私はまた筆をとった
千都:……先輩……
絵美:結果はこの様だ
千都:……
絵美:……自分の欲のためだけに取った筆は、自由には動いてくれない
家族の、いや、絵の中に人を描こうとすると手が止まるんだ……そして、何も出来なくなる……
千都:……廣瀬先輩……
絵美:な、私は汚いだろ?
千都:(M)そう言って笑った廣瀬先輩の顔は、悲しみと自分への怒りとこの状況への諦めで歪んで見えた
俺は先輩にどんな言葉をかければいいのか分からず、ただただ時間だけが過ぎて行った
夕方、俺はそっと先輩のアトリエを後にした
千都:(M)その後、俺は先輩のアトリエへ向かうことはなかった
夏休み期間ということも幸いし、俺が先輩と顔を合わせることはなかった
強いと思っていた。ずっと、俺の先にいてくれていつまでも変わらずあってくれるものと思っていた
いつの間にか心地よくなっていた先輩との関係
いつでも前を向いて好きなものを笑顔で追いかける。まるであの絵のひまわりのような先輩
そんな強い先輩が抱えていたものは大きかった。俺にとっては大きすぎた
だから、目をそらしてしまった。夏休みが終わり、また日常に戻ろうとしていた夜
蘭さんからの電話を受け取るまでは……
●千都の部屋・夜
机に向かい勉強をしている千都。スマホが鳴る。
千都:ん? 電話? 誰から……蘭さん?
はい、もしもし
蘭:あぁ、千都君。こんな時間にごめんなさいね
千都:いえ
蘭:どうしても貴方に知らせておきたいことがあって……
千都:はい
蘭:実はね……
少しの間。
千都:……え……
●夏休み明け・学校・放課後
屋上で一人空を見上げる絵美。
バタバタという荒い足音がして、屋上のドアが開く。
千都:……
絵美:(ドアの方を振り返り)ん? おぉ、白石千都(せんと)
千都:(息を切らし)……廣瀬先輩……ここにいたんですね……
絵美:私を捜していたのか?
千都:……そうです
絵美:そうか、珍しいこともあるもんだな
千都:先輩!
絵美:なんだ?
千都:……
絵美:ん? どうした?
千都:……お客さんのイベントに出す絵、描くのやめたって本当ですか……
絵美;……あぁ
千都:なんで!
絵美:誰から聞いたんだ?
千都:……蘭さんから昨日、聞きました
絵美:(苦笑して)そうか。蘭さん、あれほど秘密にしといてくれってお願いしたのに……
千都:……どうしてですか?
絵美:アトリエも絵もあんな風になってしまったしな。手の怪我も完治していない
長時間、下書きをしたり筆を持ったり出来ないからな
千都:……
絵美:(自嘲的に笑い)神様からのお達しだよ
千都:え?
絵美:「疫病神は家族の絵を描くな」ってことなんだろう
千都:そんな!
絵美:そうなんだよ。それが、「まだ早い」なのか「一生描くな」なのかは私にはわからないけどな
千都:……
絵美:(悲しく微笑んで)描こうとすればするほど、手の震えが止まらなくなる
きっと、自分勝手な願いのために絵を利用した私への罰なんだ
しっかり受け止めるよ
千都:……
絵美:そうだな。手が治ったらまた空の絵から始めよう
千都(せんと)が好きだと言ってくれた青から始めよう
間。
千都:……先輩、そのイベントの作品の納品っていつですか?
絵美:え?
千都:いつですか?
絵美:えっと……前日だったはずだ。会場の準備の時に持ってきてほしいって言われてた
千都:……そうですか
絵美:千都(せんと)?
千都:なら、ギリギリ間に合いますね
絵美:え?
千都:……俺が描きます
絵美:え?
千都:先輩の家族の絵、俺が描きます
絵美:えぇ! ちょっ、なにを……
千都:これで貴女の問題が解決するとか、そんなことはないでしょう
これは、あくまでも先輩の問題ですから
絵美:……
千都:でも
絵美:でも?
千都:あの絵を……あのコンクールで描いたあのひまわり畑の絵を好きだと言ってくれた
あれが「救いになった」と言ってくれた先輩の力になりたいんです
絵美:……
千都:俺で力になれるかなんて分からない。でも、なにもしないわけにはいかない
……これは、俺からの感謝の気持ちです
絵美:感謝?
千都:……俺が絵を描かなくなったのは、あの絵が全部を壊したからなんです
絵美:それは……
千都:(遮って)理由は、今はまだ聞かないでください。その時が来たら、ちゃんと話しますから
絵美:……
千都:廣瀬先輩。俺に絵を、貴女の思い描いた家族の姿を描かせてください。先輩と一緒に
絵美:一緒?
千都:そうです。先輩のアトリエで、先輩の家族の話を聞きながら描かせてください
……ご家族のお話をされるのは辛いかもしれませんが……
絵美:そんなことない!
千都:え?
絵美:聞いてほしい。話していいのなら、許されるのなら、私の家族のこと、いっぱい……
千都:もちろんです
絵美:……アトリエ、まだ散らかってるけどいいか?
千都:かまいません。じゃあ、ササっと片付けます
絵美:……バスもあまり通ってないぞ?
千都:あの時よりは本数増えましたよね? 最終のバスの時間も確認しておきます
絵美:でも、時間が……
千都:そこは、俺も怖いです。でも……
絵美:でも?
千都:描かなきゃいけないと思うんです。今動かなかったらきっと後悔すると思うから
絵美:……千都(かずと)……
千都:(微笑んで)
絵美:え?
千都:……こういう時はちゃんと名前を呼んでくれるんですね
絵美:……
千都:でも、先輩の口から本名の方を聞くとちょっと不思議な感じですね
絵美:うっ……
千都:……先輩のおかげでこの名前も好きになれそうです
絵美:え?
千都:なんでもありません。さ、サッサと帰りましょう。とりあえず、アトリエの掃除からですね
絵美:お、おぅ!
千都:(M)自分でも不思議な気持ちだった。でも、今。動かなきゃ後悔すると思ったんだ
過去に押しつぶされそうになっている俺を救ってくれた人。本人にその自覚なんてないだろうけれど
その人のために俺の力が活かせるなら。俺はあの日、先輩の絵に救われたんだ
●休日・午後・アトリエ
黙々と下書きをしている千都。
千都:……
千都:(M)久しぶりに触れるそれらは、昔触れていた感覚とはだいぶ違っていた
一瞬、自分は拒絶されたのではという感覚に陥る。手にじんわりと汗がにじむ
前の俺だったら、きっとここで止めていた。「必要ない」と。いや、触れようとすらしなかっただろう
でも、今は違う。進まなくてはいけない、この恐怖と向き合わなくては
だって、俺は……
奥の部屋からアイスティーとお菓子を持ってくる絵美。
千都:……
絵美:(様子を伺ってから)……千都(せんと)……
千都:(キャンバスに向かいながら)なんですか?
絵美:えっと、今話しかけても大丈夫か?
千都:(微笑む)
絵美:え?
千都:いつでも話しかけてください。俺が先輩のアトリエにお邪魔させていただいてるんですから
絵美:それはそうなんだが……やっぱり緊張するんだよ
千都:緊張?
絵美:あぁ。自分のアトリエに人がいるということもそうだが……
それ以前に白石千都(せんと)、君は私の憧れなんだ
そんな人間が目の前で絵を描いていると思うと……
千都:気にしないでください。俺はただの絵を描いている高校生です。あの頃の俺じゃない
絵を描くことからかなり離れていた人間ですから
絵美:それでも!
千都:(苦笑して)それで?
絵美:え?
千都:なにかあったんですか?
絵美:あ、いや、大した用事じゃないんだが……
千都:はい
絵美:もう朝からずっと描いてるし、良かったら休憩しないかなって。蘭さんに差し入れももらってあるんだ
千都:(時計を見て)あぁ、本当だ。時間の感覚なかったけど、そんなに時間が経っていたんですね
絵美:あぁ
千都:じゃあ、一旦、休憩します
絵美:あぁ、そうしよう!
千都:(椅子から立って背伸びをする)
絵美:なぁ……
千都:はい?
絵美:見てもいいか?
千都:もちろんですよ
絵美:(下書きの絵を見て)わぁ……
千都:……どうですかね?
絵美:……
千都:廣瀬先輩?
絵美:凄いな!
千都:え?
絵美:輝いて見える!
千都:(苦笑して)褒めすぎですよ、先輩
絵美:だって、本当に輝いて見えるんだ! まるで、そこで花や空が呼吸しているみたいだ!
千都:……よかった……
絵美:千都(せんと)?
千都:……正直、不安でした
絵美:え?
千都:イベントに間に合うかももちろんでしたけど……
それよりも先輩の想いを絵に乗せられるのかって……
絵美:……千都(せんと)
千都:「俺が描きます!」って言ったものの、先輩に辛い思いさせて思い出話をしてもらって、それなのに俺がそれを表現できていなかったらどうしようって……
絵美:……
千都:でも、少しでも先輩にとってこの絵が輝いて見えてくれていたのなら安心です
ちゃんと、先輩の想いを乗せられていたんですね。まだまだ下書きの段階ですけど……
絵美:……私は、辛くなんかないんだ
千都:え?
絵美:むしろ嬉しいんだよ
千都:嬉しい?
絵美:あぁ。今まで、父さんや母さん、兄さんの話はしちゃいけないもだって思っていた
みんなその話をすると悲しそうな顔をするし、可哀そうな子って目で私のことを見るし
伯母さんに至っては怒り狂うしな
千都:……
絵美:でも、千都(せんと)、君は違った。私の思い出を、大好きな家族のことをそのまま受け止めてくれた
本当に嬉しかったんだ
千都:……廣瀬先輩、俺でよければ、先輩の家族の話、いくらでも聞かせてください。寧ろ、聞きたいです
絵美:……千都(せんと)……
千都:大好きなもののためなら一直線に向かっていける猪突猛進な先輩がどうやって誕生したのか気になりますから
絵美:な! 私はそんな猪じゃ……
千都:身に覚えはありませんか?
絵美:……
千都:(微笑んで)良いと思いますよ
絵美:え?
千都:好きなもは好きなものでいいじゃないですか。俺は、そんな先輩を尊敬しています
絵美:……千都(せんと)
千都:あ、でも、どんなに勧誘されても美術部には入りませんから
絵美:わ、わかった! で、でも、私もめげないからな!
千都:わかってます
絵美:……
千都:先輩?
絵美:……君は辛くないのか?
千都:え?
絵美:君の絵を見ていたらわかる。絵を諦めた人間の絵じゃない
描かなくなったのには理由があるんだろう?
千都:……
絵美:心配なんだ……
千都:え?
絵美:私のために絵を描くことで君に無理をさせていないか。辛い思いをさせているんじゃないかと……
千都:……
絵美:君が描かない理由を私から聞くことはしない。でも、これだけは確認させてくれ
千都:はい
絵美:千都(せんと)。君は今、絵を描くことで君の心に傷を付けていないか?
千都:……正直に言います
絵美:……あぁ
千都:今、この絵を描いている瞬間がとても楽しいんです
絵美:……え?
千都:……俺の話はまだ……少し待っていてください。この絵にその過去を入れ込みたくないから
絵美:わかった
千都:でも……
絵美:でも?
千都:一個だけ話してもいいですか?
絵美:もちろんだ!
千都:ありがとうございます。実は俺の名前、本当は「かずと」じゃなくて、「せんと」だったんです
絵美:え? えぇ!
千都:驚きますよね
絵美:あ、あぁ……
千都:画家のゴッホって知ってますか?
絵美:当たり前だろ! いくら私が歴史が苦手だと言ってもそんな有名人知らないわけがない!
千都:(苦笑して)ですよね。俺の両親、揃って絵が好きだったんです。中でもゴッホが好きだったらしくて
俺の名前にどうしても入れ込みたかったようで、千の都って漢字でせんとってつけたらしいです
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ。そのセントの部分を取って、せんと
絵美:なるほど
千都:でも、じいちゃんがそれじゃあ将来俺が苦労するって思ったらしくて、役所に届けを出すときに千都と書いて、「かずと」って読み方にしたらしいですよ
絵美:……そうなのか
千都:えぇ。その一件から、母方の祖父母とは疎遠になってしまったみたいです
両親からしたら、『大事な大事な息子』の名前を変えられたわけですからね
絵美:……そうだな
千都:でも、俺は名前を変えてくれたじいちゃんに感謝してます
絵美:え?
千都:今のこの状況になって、そんな名前だったら俺はきっと、もっと自分が嫌いになっている
絵美:……千都(せんと)……
千都:だから、廣瀬先輩から、「せんと」って呼ばれたとき、正直ドキッとしました
絵美:あっ!
千都:この人は俺の全てを知ってるんじゃないかって
絵美:ご、ごめん! 今度から気を付ける!
千都:別にいいですよ
絵美:え?
千都:もうこのことを人に話せるくらいには自分の中で昇華出来てるんです。それに……
絵美:それに?
千都:前にも言いましたけど、先輩の口から「かずと」って呼ばれるとちょっと違和感なんです
絵美:……うっ……
千都:なので、今まで通り「せんと」でいいですよ
絵美:……はい……
千都:……さてと、もう少しで出来上がりそうなので、この勢いで描いてしまおうと思います
絵美:おう!
千都:(M)その笑顔はまさにひまわりだった。ひまわりが苦手な俺。だって、それは眩しすぎるから
でも、今は違う。今、この瞬間、絵を、想いを描くことが楽しいと感じられるのは……
きっとこの眩しさのおかげだろう
千都:(M)それから俺は学業以外の全ての時間をあのアトリエで過ごした
こんな感覚は久しぶりだ。全てを忘れて絵だけに集中する時間
ずっと遠ざけていたけれど、俺はやっぱりこの時間が……
最後の色を絵に乗せる千都。
千都:……よし!
●公園・夕方
ベンチで絵美を一人待つ千都。
千都:(空を見上げながら)……これでよかったのか……俺は……
絵美:(遠くから)せんと~!
千都:廣瀬先輩!
絵美:(息を切らしながら)お、お待たせ! ま、待たせたな
千都:大丈夫ですよ。そんなに待っていませんし
絵美:そ、そうか。よかった……
千都:……絵、大丈夫でした?
絵美:え?
千都:あの、ちゃんと受け取ってもらえたのかなって
当初、先輩に声をかけてくださったときとは違うことになってしまっているわけですし……
絵美:それは大丈夫だったよ。蘭さんがちゃんと説明してくれたし、私もお店に来てくれた時にちゃんと事情を説明していたから
千都:そう、だったんですか……
絵美:あぁ!
千都:すみません
絵美:え?
千都:本来なら、俺も謝りに行かないといけなかったのに……
絵美:そんな! 千都(せんと)に感謝することはあっても、君が謝らなきゃいけないことなんてない!
千都:……先輩……
少しの間。
絵美:お客さん、喜んでくれてた
千都:え?
絵美:凄くいい絵だって。今度は合同じゃなくて、二人のそれぞれの絵を飾らせてほしいって
あ、もちろん、また二人で描いてくれてもいいからねって
千都:(嬉しそうに)そうか。よかった
絵美:……千都(せんと)
千都:はい
絵美:本当にありがとう。私のために描いてくれて
君のおかげで家族にまた会うことが出来た。みんなの笑顔を思い出すことが出来た
千都:……先輩、こちらこそ、ありがとうございます
……俺の方こそ救われたんです
絵美:え?
千都:……約束、覚えてますか?
絵美:あぁ
千都:俺の昔の話、聞いてくれますか? 面白い話なんかじゃないですけど……
絵美:……聞かせてくれ。聞きたい。
絵美、千都の隣に座る。
千都:(息をついて)あぁ……改めて話すとなると、なにから話していいかわからないですね……
絵美:なにからでも。君の話したいことから話してくれ
千都:……俺の両親が揃って絵が好きだったって話、しましたよね。俺の名前もゴッホから取ったって話も
絵美:あぁ
千都:二人の影響で俺は物心ついたときにはすでに絵を描いていました
それがどんな絵だったかは覚えていませんが……
絵美:そうなのか
千都:はい。俺は言われるがままに絵を描きました。当時はそれが正しいと思っていたんです
絵を描くことが俺の人生の全てだと思っていました
学校が終わるとすぐに家に帰って絵を描いて、休みの日もずっとキャンバスに向かって、コンクールが近くなると絵のために学校を休むのなんて当然でした
絵美:うん
千都:おかげで、友だちなんていませんでした。当たり前ですよね
俺自身、絵にしか興味がなかったし、それでいいと本気で思っていたんですから
当時の俺にとっては、絵と両親が世界の全てだったんです。俺が絵を描けば二人が褒めてくれる
それが嬉しくて、俺は絵を描くことに没頭しました
絵美:そうなんだな
千都:はい
絵美:じゃあ……
千都:ダメだったんです
絵美:え?
千都:俺は二人に喜んでほしくて、頑張って絵を描きました。あの時も……
俺はひまわりと自分の家族をモチーフにしてコンクールに出す絵を描きました
完成した時、この絵を見たらあの二人はすごく喜んでくれるって思いました
なにを描いたか秘密にしてコンクールに絵を提出しました
そして、賞をもらえたという連絡が来て、俺は誇らしい気持ちでその展覧会に二人を連れていきました
絵を見せるために
絵美:……
千都:両親は絵を見た瞬間、二人揃って帰りましたよ
絵美:え?
千都:その日の夜。両親はリビングで大喧嘩していました
なにが気に障ったのかはわかりませんが、俺の絵が原因だったの明らかでした
絵美:君の絵が?
千都:はい。「お前のせいで」とか「あなたが悪いんでしょ」とか、お互いに罵りあってましたね
絵美:……なんで……
千都:俺が、二人の『思い描いていた画家の像』から外れてしまっていたからだと思います
絵美:画家の像?
千都:もう今となっては事の真相なんてわかりませんし、知りたいとも思いませんが
きっと二人の中に俺は「こういう子どもであるべき」という理想があったんだと思います
その理想から、あの日、俺は外れてしまった
絵美:……そんな……
千都:その数日後、両親は離婚しました
そして、親権を放棄した両親に代わって、俺を引き取ってくれたのは母方の祖父母でした
絵美:……離婚……
千都:信じられないでしょう? でも、俺の両親はそんな人たちだったんです
絵美:……
千都:(絵美の顔を見て驚く)廣瀬先輩、どうして泣いているんですか?
絵美:……千都(せんと)が泣かないから……そんな……なんで……
千都:ありがとうございます。廣瀬先輩
絵美:え?
千都:俺のために、俺の代わりに泣いてくれて
絵美:……お礼なんて……
千都:それだけじゃないです
絵美:え?
千都:先輩は展覧会で見た俺の絵に救われたと言ってくれました
絵美:あぁ
千都:当時の俺の全てを壊したあの絵を救いだと言ってくれた。俺はそれが嬉しかったんです
絵美:え?
千都:「誰かを不幸にする絵」。俺の絵はそんなものだと思っていました
絵美:そんな!
千都:事実、俺の家族を壊したんですから
絵美:……
千都:人を不幸にするくらいなら、俺は絵を描くことを止めようと思いました
そして、止めたからには一生その世界には戻らないと決めていました
絵美:……じゃあ、なんで……
千都:……あの絵を救いだと言ってくれた先輩を助けたいと思ったんです
絵美:え?
千都:助けるなんて烏滸がましいですが、あんなに素敵な絵を描く先輩に絵をやめてほしくなかったんです
俺で力になれるなら、俺の過去なんて関係ない。だから、描こうって思いました
絵美:千都(せんと)……
千都:それに、一人じゃないから
絵美:え?
千都:俺一人じゃないから描けるって思ったんです
絵美:……
千都:正直、いろいろ怖かったです。イベントに間に合うのか、間に合ってもこの絵をよしとしてもらえるのか
なによりも、先輩の想いを絵に乗せられるのか……
絵美:千都(せんと)の絵は最高だ!
千都:先輩……
絵美:私は君が描いてくれてよかったと思っている!
例え、他人からどう言われたって私は君に描いてもらって本当によかったって思う
何度も言うが、君のおかげで私はまた家族と会えたんだ
あの暖かい微笑みに、声に触れることが出来た。君じゃなかったら出来なかった
だから私は君に感謝しているし、君の絵が大好きなんだ!
千都:……先輩
絵美:だから、ありがとう。白石千都(せんと)
間。
千都:……暗くなってきましたね
絵美:そうだな
千都:そろそろ帰りますか
絵美:……
千都:先輩?
絵美:なぁ、白石千都(せんと)
千都:はい
絵美:もう、これで終わりか?
千都:え?
絵美:もう、君は絵を描かないのか?
千都:……
絵美:こんなこと言うのは無責任かもしれない。でも私はもっともっと君の絵を見てみたい
これからの君の絵を
千都:……先輩
絵美:描く場所がないというなら私のアトリエを使ってくれてかまわない。君なら大歓迎だ
道具も必要なものをそろえるまではあそこにあるものを使ってくれてかまわない。だから……
千都:……廣瀬先輩
絵美:描くのをやめないでくれ
千都:……
絵美:私の我儘だってわかってる。わかってるけど……
千都:……次のイベント、一緒に出してくださいって言われたんですよね?
絵美:え? あ、あぁ!
千都:自分の絵はあの頃みたいには描けないでしょうけど……
絵美:いいんだ! あの頃みたいじゃなくたって!
今の君が描きたい絵を描きたいタイミングで描いたらいいんだ!
千都:……はい……
千都:(M)そう言って微笑んだ先輩の笑顔はひまわりのようだった
彼女を助けたいと思って描いた絵。でも、それは彼女を助けたんじゃなくて、俺が自分の過去を乗り越えるために必要なものだった
そして、その先で掴み取ったもの。芸術の神様が用意してくれた贈り物
それは、泳ぎたくなるような澄んだ青と眩しいくらい輝いているひまわりの花
―幕―
2025.08.01 HP投稿
お借りしている画像サイト様:フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)
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